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国立劇場五月文楽公演・第二部 [舞台]

5月20日

昨晩から朝までの大雨と強風も昼頃にはおさまったのはラッキー。それにしても5月に台風が来るって一体どうなってるんだか。

一・心中宵庚申
 上田村の段 住大夫・錦糸
 八百屋の段 嶋大夫・宗助
 道行思ひの短夜 津駒・英・文字久・清友・団吾・清馗・清丈・寛太郎
簑助のお千代、勘十郎の半兵衛、文雀のおかる、紋寿の平右衛門

近松最後の世話物作品とかで、度々上演されているようだが縁がなく初見。
心中物の多くは現代から見ると死ぬくらいなら他に解決法もあったろうにと思うものがほとんどで、これもそうだが、忠や孝の重みが今とは比べものにならない時代ゆえの作品と言うことだろう。

上田村の段では、姑去りされたお千代の切なさ、お千代をいたわり半兵衛を非難する姉と父親の情、何も知らなかった半兵衛の当惑、などを切々と語る住大夫の語りに情が溢れてさすがに立派。
文雀のおかるがきびきびした様子と妹の身を案じる優しい姉の雰囲気を出して上等。

八百屋の段では、嶋大夫がコミカルさも見せながら姑のきつい性格を表現して秀逸。嶋大夫さんって、こういう意地悪い役が本当に上手い。一転、死を決意する半兵衛とお千代の悲痛もじっくり聴かせた。
道行では死に行く二人の悲しさ哀れさを連れ弾きの三味線が引き立てた。

勘十郎の半兵衛に元は武士であったことを窺わせるきっぱりとした感じがあり、簑助のお千代に薄幸な嫁のしおらしさと哀れさが見えてさすがに立派。

二・狐と笛吹き
和生のともね、玉女の春方

確か一昨年くらいに歌舞伎座でも上演された(その時は観ていないが)北條秀司の作品の文楽化。
観ていて、と言うか聞いていて、最初から最後までものすごい違和感というか居心地の悪さを感じてしまった。原因は明らかで、詞章が現代語だから。特に地の文は文語調なのに、春方やともねの台詞だけが現代語で、それも妙に浮いた言葉が多いので、気持ち悪いのだ。新歌舞伎を観るときもこの違和感は付き物なのだが、ましてや文楽で三味線にのせてあのような台詞を聞かされるのは正直言って苦痛だった。三味線と口語がこんなに合わないものとは。それもイントネーションが標準語のようなそうでないような中途半端だし。住大夫が常々文楽は大阪弁のアクセントでないと、と言っているが、ほんとにそうなんだなあと改めて痛感した。そんなだから、大夫らが一生懸命語れば語るほど失笑が起きるという具合になってしまう。これはもう演者の責任ではないだろう。

曲自体は良くできていて、普段文楽ではあまり使われない笛(藤舎推峰)の音色も美しく、夏の場面での琴(清志郎)と三味線(清治)と笛の掛け合いなど惚れ惚れと聴き入るほど。
また舞台装置も簡素ながら照明が美しく四季の移ろいをよく表して印象的。
だが結局、文楽と言うよりは、人形劇を観たという感じで終わってしまった。
こちらが慣れないせいもあるのだろうが…。文楽で新作を作るというのは、歌舞伎よりもずっとハードルが高そうだな、と感じた。
タグ:文楽
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