川端龍子展 [美術]
山種美術館
没後50年記念の展覧会。
実はこのブログのいちばんはじめの記事が川端龍子展だった。まあ偶然ですけど。
はじめ洋画家を志し、後に日本画家に転向、というのはわりと珍しいのでは。その経歴を知ってから観るせいか、日本画というとイメージする繊細な画法より、大胆な構図で大きな画面いっぱいに描かれた迫力ある絵が多い。
《鳴門》
とにかく大きい。そしてその大画面に渦を巻く海に引き込まれそうな気がする。
《香炉峰》
大きすぎて、一瞬何を描いているのかわからなかった(苦笑)
戦時中に中国大陸に渡って飛行機に乗せてもらった時に見た景色を描いた絵。非現実的だが飛行機を半透明に描くことで景色の雄大さを描き出している。
こういった大きな絵は「会場芸術」と呼ばれて、はじめは龍子を批判する言葉だったらしいが龍子はそれをいわば逆手にとって、展覧会場で多くの人に見てもらう作品を描いた。
ただこういった大きな絵を見ると、構図の妙や面白さはあるにしても、写実性や色使いの美しさは二の次になっているような気がしてしまって、この人って「巧い」のかなあ、と素朴な疑問がプチッとわく。
ところが。
《爆弾散華》
戦争の爆撃で自宅が被災し、壊滅した様子を飛び散った草花に託して描いた。これもサイズは大きいが、繊細華麗に描かれた花々はまさしく伝統的な琳派風の花。
ふうむ、こういう絵も描ける。他にも鯉を描いた「五鱗」なども繊細な美しさがあった。
なんだかつかみ所のない人だ。
《草の実》
これは金字経に発想を得て描かれた。紺の地に金泥のみで描かれた草花が実に品が良く華麗。
また、龍子は俳句もたしなみ、自作の句に絵を添えた作品も多く展示されていて、大規模の絵とはひと味もふた味も違った親しみやすい作品が並んでいた。
正直言うと、あまりにいろんなタイプの絵があって、素人目には「龍子らしさ」が捉えられなくて、好きなタイプの絵とそうでもないのといろいろあって、まあそこも含めて面白く見ることができた。
没後50年記念の展覧会。
実はこのブログのいちばんはじめの記事が川端龍子展だった。まあ偶然ですけど。
はじめ洋画家を志し、後に日本画家に転向、というのはわりと珍しいのでは。その経歴を知ってから観るせいか、日本画というとイメージする繊細な画法より、大胆な構図で大きな画面いっぱいに描かれた迫力ある絵が多い。
《鳴門》
とにかく大きい。そしてその大画面に渦を巻く海に引き込まれそうな気がする。
《香炉峰》
大きすぎて、一瞬何を描いているのかわからなかった(苦笑)
戦時中に中国大陸に渡って飛行機に乗せてもらった時に見た景色を描いた絵。非現実的だが飛行機を半透明に描くことで景色の雄大さを描き出している。
こういった大きな絵は「会場芸術」と呼ばれて、はじめは龍子を批判する言葉だったらしいが龍子はそれをいわば逆手にとって、展覧会場で多くの人に見てもらう作品を描いた。
ただこういった大きな絵を見ると、構図の妙や面白さはあるにしても、写実性や色使いの美しさは二の次になっているような気がしてしまって、この人って「巧い」のかなあ、と素朴な疑問がプチッとわく。
ところが。
《爆弾散華》
戦争の爆撃で自宅が被災し、壊滅した様子を飛び散った草花に託して描いた。これもサイズは大きいが、繊細華麗に描かれた花々はまさしく伝統的な琳派風の花。
ふうむ、こういう絵も描ける。他にも鯉を描いた「五鱗」なども繊細な美しさがあった。
なんだかつかみ所のない人だ。
《草の実》
これは金字経に発想を得て描かれた。紺の地に金泥のみで描かれた草花が実に品が良く華麗。
また、龍子は俳句もたしなみ、自作の句に絵を添えた作品も多く展示されていて、大規模の絵とはひと味もふた味も違った親しみやすい作品が並んでいた。
正直言うと、あまりにいろんなタイプの絵があって、素人目には「龍子らしさ」が捉えられなくて、好きなタイプの絵とそうでもないのといろいろあって、まあそこも含めて面白く見ることができた。
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