12月13日(月) 昼の部
日生劇場

歌舞伎座がなくなって、いろんな劇場で歌舞伎をやることになってしまい、今月は初めての日生劇場。初めて行きました。建物自体はそう新しいわけではないけど、何となくモダンでお洒落な作り。客席天井の曲線を描いたデザインなどは、ガウディを思い出させるような。それは逆を言えば歌舞伎とはものすごいミスマッチな空間で、ちゃんと花道もあり、劇場史上初めて舞台に破風屋根が取り付けられてそれらしくしつらえてはいたけれど、幕が開くまでは何とはなしに妙な気分ではありました。
それと、この劇場客席での飲食禁止なのね。歌舞伎公演は幕間でお弁当食べるのが普通なので、とても困る。ロビーの椅子は足りないし。歌舞伎の時だけでも許可してくれたらいいのになあ。



  通し狂言
一、摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)
序 幕 住吉神社境内の場  
二幕目 高安館の場      
      同 庭先の場  
三幕目 天王寺万代池の場  
大 詰 合邦庵室の場             

玉手御前  菊之助              
羽曳野  時 蔵              
奴入平  松 緑              
次郎丸  亀三郎              
俊徳丸  梅 枝              
浅香姫  右 近              
桟図書  権十郎            
高安左衛門  團 蔵              
おとく  東 蔵             
合邦道心  菊五郎

菊之助の玉手御前は5月の團菊祭で大詰めの場のみ経験済み。その初演の時でも素晴らしい出来だったので、こんなに早く、しかも通しで観られるとは嬉しい限り。
期待に違わず、終盤までは恋に囚われた女を美しくも激しく、怖ささえ感じさせるほどの狂おしさと一途さを見せて気迫の演技。止める羽曳野と争い、父母の説得にも耳を貸さず、淺香姫には「(邪魔をすると)蹴殺すぞ」とまで言い放つ様はほとんど狂気の沙汰のよう。その一方で、親の家にたどり着き戸をほとほとと叩く様子には哀れさとうちに秘めた決意をのぞかせて、ひんやりとした儚さも見せる。
父に刺されてからの告白には誠実さと哀れさがあり、大切な人のために死んでいく喜びさえ見せた。
「恋と忠義はいずれが重い」は「義経千本桜」の吉野山での浄瑠璃だが、恋にしろ、忠義にしろ、俊徳丸を命がけで守ろうとしたことは動かない。その一途な女の情念と健気さを、哀れにも美しく、見事に演じてのけた菊之助の力量に舌を巻いた。

その相手である俊徳丸は梅枝という清新な顔合わせになったが、こちらも大健闘。聡明で美しい若殿振りがぴったりで、玉手が心を寄せるのもうなずける。一人舞台の場面でも不安を感じさせず、菊之助の相手役として遜色なかったのは立派なもの。

菊五郎は今回合邦に回った。残念ながら菊五郎の玉手も、当たり役だったという梅幸のも観ていない。菊五郎のは一度観てみたい。自身「おじいさん役は初めて」と言っているが、そのせいかどうも老け顔メークが似合っていない。ああ、やっぱりこの人は永遠に二枚目役者だな、と思う。また、この人の持ち前の愛嬌や茶目っ気が、合邦の無骨さ剛毅さを表すのに邪魔をする感じがあり、「天王寺の場」などは逆にそれが良いのだが、「庵室の場」では、娘に厳しく当たる父と取りなす母という対立が今ひとつ生きなかったように思う。

羽曳野の時蔵に律義な武家女房らしさ。
東蔵が娘をかばう母の慈愛を見せて泣かせる。
入平の松緑はニンに合って、きびきびとした様子。松ちゃんて、お殿様より奴なんだなあ(苦笑)。
淺香姫の右近は、踊りは同世代では群を抜いて上手い人だが、芝居はまだまだ、一生懸命が取り柄の段階。それでも今年1月の国立劇場の時よりは格段に自然な身のこなしや台詞が身についてきて、先が楽しみ。
そのほか周りも揃って、見応えのある大舞台となった。いやはや、しかし菊ちゃんは凄い。「十二夜」に続いてこれもきっと代表作になるだろう。

  平城遷都1300年記念
二、春をよぶ二月堂お水取り
  達陀(だったん)
             
僧集慶  松 緑              
堂童子  亀 寿              
練行衆  亀三郎               
 同  松 也               
 同  梅 枝               
 同  萬太郎               
 同  巳之助               
 同  右 近            
青衣の女人  時 蔵

以前テレビで、先代松緑を偲ぶ番組でちょっとだけ観たことがある演目。
二月堂のお水取り、正式には修二会の様子は非公開だが、先月高島屋で観た東大寺展の会場でドキュメンタリー映像を流していて、垣間見ることができたのだが、五体投地のような激しい修行も行われているようだった。この作品にどれくらい実際の修行の様子が取り込まれているのかは解らないが、厳しく激しい雰囲気が良く伝わるものだった。

集慶と青衣の女人(昔の恋人)の絡みもあるが、印象としてはそれは脇筋、彩りを加える程度で、やはり見所は僧達の踊りとなる。他の演目で所化の踊りと言えば「娘道成寺」や「喜撰」などのコミカルなのはあるが、これはまったく違う。修行の厳しさを舞踊化したというか、普通日舞で思い浮かべるのとは体の使い方などもずいぶん違うように感じた。特に最後の全員での踊りは壮観で、勇ましく、凛々しく、迫力十分で日舞でもこういう表現ができるのだなあ、と新鮮に感じられ、むしろバレエの男性ダンサーの群舞を思い起こした。ボリショイの「スパルタカス」や「ロメオとジュリエット」、またはベジャールの作品などこんなシーンがなかったかなあ、なんて。

中心となる集慶は松緑。祖父である先代が振り付けた家の演目で、初めて本公演で演じる意気込みが表情にも表れているように思えた。もちろん、踊りもきびきびとしていて、手足がよく伸びて動きが綺麗なのはさすが。

青衣の女人は時蔵で、この演目に出てくる紅一点。幻らしい儚さ美しさがあり、いつもながら清楚な雰囲気がぴったり。

他の人たちは台詞もなく、衣装もみな同じなのでよく見ないと誰が誰やらだが、真ん中にいなくても何となく目を引くのはやっぱり右近だった(もちろん、変に目立っているというわけではありません)。素人目にも、なんだか身のこなしが違う感じがした。

大歌舞伎という割には出ている人数も少な目だし、演目も通好みかもしれないが、どちらも高水準な内容でとても見応えがあり面白かった。